私の中で、生井君の名言?となったこの言葉ですが、テレビで同じようなのを見ました。
都会の小学生が修学旅行で新潟のある地域に自然体験で訪れる一幕で、現地に降り立った子供たちのインタービューで・・・
「なんにも無くてすごい!」
私はびっくりしましたよ。
あんないい空、見事な田んぼ、森の木・・きっとあたりを飛んでいただろう虫や小動物、足元の草、土・・。
この子供らにとって、建物や車、人工物しか”モノ”として認識できないんだな。
それも解る。鴨やキジを見つけてウマそうなんて、10年前の私は思わなかったから。
小濁を伝えることもアルネ小濁の事業の一つとしようと、地域活動の目線で戦略を練っていくうち、WEBや新聞、口コミ、などアイディアが出てくる訳ですが、では誰にどうやって伝えようか。何を売り物にしようか・・。現場にいる我々が考える最も難しい事の一つです。
「何も無いことは貴重である」そんな提案がありました。
「もっともですね」私は賛成しましたが、心からそう思っただろうか?
もちろん、水道も無い暮らし。バスも来ない、店はもちろん無い、自販機もポストも無い。
12の木(古民家サイコー)を始めたころ、この家を見て絶句した人たちがいっぱいおられました。
でもその気持って実は私には解らなかった。
私の感覚には「無い」が失われてしまっているのかもしれません。
うまく言えませんが、画材屋に入ったら真っ白なキャンバスがずら〜っと並んでいて、いろんなサイズ、いろんな質感・・・・
「ぅおぉ〜っ、何を書こうかな。こんな絵が描けたらあそこに飾りたいな。あの人に見せたいな。みんなで絵を描いたらきっと楽しいだろうな。」
学べる事への期待や、葛藤を乗り越えた喜びを共有できる瞬間。そんなワクワク感しか無いんだろうと思います。
苦労したいなんてこれっぽっちも思わないし、私の中には「なんにも無いがある」は無いんですね。